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2009年 02月 13日
伊藤さんとご家族の皆様へ
伊藤さんからメールを頂き、感動しています。我々の事をずっと心に留めてくださっている事を知り、とても嬉しく思います。ジンバブエの政情のせいでJICAの皆さんが、任務途中で国外退去になってしまったことは、残念です。 野球環境の現状 ジンバ野球・ソフトボール協会は現在分かれており、おのおのが国の協会を立ち上げています。私は ZBAの会長です。野球のシニアコーチの職に戻っています。野球に関しては、5チームでのリーグを始めたところです。各チームは5つの地域から選抜された選手を擁しています。試合は、現在発展途上の地域のリーグに合わせて月に1回、開催しています。 競技大会の予定は以下のようになっています。選手と役員に、競り合った試合を経験させ、木のバットに慣れさせたいと考えています。殆どの良い投手・打者が活躍可能で、シニアチーム編成が容易になります。現在のところ、用具が不足し厳しい状態です。緊急に用具が欲しい、そしてどの様にその用具を利用したいのか、と岩永さんに伝えたのですが。 政府からは、Province内で試合を行うよう圧力をかけられています。もし用具を送っていただけるのなら、こんな嬉しいことはないのですが。用具を国内に持ち込むことに関して援助を頼めないか、日本大使館に 掛け合ってみます。昨年、日本大使館の第2秘書、I氏にお会いしました。彼は、援助を保障してくれました。 ドリームパーク 悲しいことですが、ZBSA前役員と野球場に隣接するサッカー場の借地人のせいで、現在球場は使用できません。しかし、私が戻りましてから、その状況を解決すべく努力し続けています。政府側がこの問題を取り上げ、我々に良い方向で、ハラレ市とサッカー場利用者(借地人)と協議中です。また、借地権を確かなものにする為、無償で活動してくれる3人の優秀な弁護士もいます。(この件に関して我々を強力に支援してくれている関係当局に、最新の手紙を送りました。諸費用が底をついている状況で、村井さんと接触できないのは残念です。このことは我々にとって大変重要なことです。2008年ドリームカップ大会は、ドリームパークで開催できると確信しています。 マンディと彼の家族 野球協会に職員として復帰でき、とても幸せです。結婚し、イタイとヒールという2人の娘もいます。妻のビアンカは、南アフリカのヴェンダ地区で教員をしています。月に1回私は妻の元を訪れて学校でソフトボールを教え、少しお金を稼ぎます。私と妻は2006年と2007年の少し、そこで共に働いていました。私は2つの理由でそこに住み続けることができませんでした。 1.母の健康状態が良くなく、帰らざるをえなかった 2.オリンピック予選の為、ナショナルチームの援助をする必要があった オールアフリカゲームに参加できなかったのは残念でしたが、オリンピック予選には参加できました。 もしお力を貸していただけていたら、結果は格段に良かったでしょう。 今のところ、おそらく2012年までは現在の地位にいるつもりです。計画から少し遅れてはいますが、追いつける自信はあります。今年の目標は: 1.もう一人正職員を雇って、事務所を立ち上げる(60%稼動) 2.野球場を取り戻し、今年の終わりまでに使えるようにする(行動を開始済み) 3.野球憲章と運用指針の草案を作成(90%終了) 4.国内リーグの立ち上げ(第1回目の試合、ブラワヨ対ハラレ、11対16) 5.コーチにふさわしい人材を選抜する 6.ホームページを立ち上げる 7.シニアチームを南アフリカ、レソトに派遣。ザンビアを迎える。 8.農業を通して野球協会の収入の道(財団?)を造る 9.監督として勉強する為、自分自身が国外に行ってみたい(夢) 10.国内移動用のバスを手に入れたい(夢) 11.伊藤さん始めジンバブエ野球会の皆様と、良き友人でいられますように (編集者注)以上の便りに、下記3点が添付されていました。 1.ドリームパークに関する書類 2.ジンバブエ野球・ソフトボールの歴史 3.国内リーグ(野球・ソフトボール)予定 # by amain | 2009-02-13 01:08
2009年 02月 13日
(今年、福井ミラクルエレファンツに移籍した)
①福井での現在の生活はどんな? 試合が無い日は、三国球場まで球団のバスで移動し、2~3時間の練習をします。午前、午後は日によりますが、寮に帰ってから、ジム(球団のジム;香川の時のように「コナミ」等のスポーツ施設ではない)でトレーニング。夜は寮でチームメイトと素振り、お互いにアドバイスしあうこともあります。 試合前後には、チームでミーティングがあり、コーチの話はかなりの部分理解できるようになったが、分からないところはチームスタッフに説明してもらっています。 先週末は、遠征で群馬へ。球団のバスで移動(6時間)。ビジネスホテルに宿泊し、土日で2試合をこなしました。移動はそんなに大変ではありません。 シーズン前はよく、商店街、学校などへ出かけ、チームの宣伝をしていましたが、現在はそのような活動はありません。 ②現在、先発で試合に出ているが、ベンチにいることが多かった高松時代と比べて、どのように感じているか? 野球の技術的レベル、試合勘(センス)はかなり向上しています。試合の中で様々な状況を経験することによって、細かいことが学べています。膝の痛みは完治はしていないが、プレーできています。 ③寮生活に関して;1つ屋根の下にチームメイト全員が暮らすことに慣れたか?食堂、風呂、洗濯機、トイレなど共用であるが、それに不便は感じないか? 選手全員が一緒に暮らすことで、コミュニケーションもとりやすいし、チームの結束力も強まっていると思います。他の選手と仲良くしているし、一緒に食事に出かけたりも。 食事に関して、始めの予定では、一日三食寮で、ということでしたが、シーズンが始まってからは、朝昼は全員一緒に寮で食べ、夕食は各自外で済ませるということになりま した。寮の近くにうどん屋さんがあり、よく行きます。(※値段が安いからかなァ~と少し気になりますが) 給料は、総じて香川のときの方が良かった。(※2,3月に前倒しで支払われた給料が天引きされているので、より苦しいのかなと想像します。それに新規参入チームゆえの事情もあるのだと思います。香川では、光熱費などはチーム持ちだったそうですが、福井では選手が割り勘で払っているようです) 自由に使える(夕食代を払う前の手取り)お金は月4~5万円くらい。香川の時にあったインセンティブ(出来高払い)はBCリーグにはなく、去年はできた貯金も今年は難しい。 (※で、勝手に、野球用具関係での金銭的サポートは伊藤さんに頼めばいいよ!と言ってしまいました。すみません。) ④自分の将来への展望は? 今のところは何も考えられません。来年も福井でプレーできるかどうか分からないし、今、一生懸命頑張るのみです。 # by amain | 2009-02-13 01:02
2009年 02月 13日
6月1日9時に阪急塚口駅に集合、正岡夫妻と全播磨硬式野球団OB二人と5人でシェパード君を応援に、敦賀総合公園球場に向けて出発しました。名神、北陸それぞれ高速道を約2時間の旅、道中は日曜でしたがスムーズに流れて目的地には11時すぎに到着しました。駐車場に車を置き球場受付へ。
丁度選手たちが観戦するファンとの交流をしており、早速シェパード君を正岡さん奥様康子さんから激励と手作りの大きな首輪を渡して、試合での活躍を期待してスタンドの席を確保しました。ベンチのすぐ近くの所にしました。試合までかなり時間がありグランドで練習してる選手を見ながら軽く食事を摂りました。今日の対戦チームは群馬ダイヤモンドペガサスです。監督コーチ陣はプロ野球で馴染みの方々なので身近に感じました。 私も野球の経験があり、プレーについて細かな事を注意して、選手を観察しようと想いグラウンドに目をやりました。午後一時プレーボール、その前にオープニングセレモニーがあり、敦賀高校のブラスバンド演奏を楽しみました。 いよいよプレーボール。シェパード君は3番ファーストで後攻の為、守備につきました。前半は投手がなんとか踏ん張り5回2対2、後半戦やや守備のミスなどで失点を重ねて劣勢に試合が進行して終わってみれば10対3の完敗でした。 打席には5回立ち、空振り三振、サードゴロ、ファーストゴロ、四球、死球と、期待していた快音は見られなかった(残念)。しかし何度かバットの振りがいい感じのがありましたが結果に出なく見終えました。コーチの目で言うと、もっと右足に体重を残して体の軸をしっかりすればもっと打つ事が出来ると想います。多分コーチの指示は受けてるでしょう。22歳の年齢を考えるとまだこれからと言うところ。 試合時間が3時間40分とかなり長かったので、終わると車に戻り、素早く帰路につきました。車内ではそれぞれ、観戦の感想を語りながらの道中で、時間はすぐに過ぎて行き、早や名神尼崎に到着です。改めてシェパード君への期待が全員一致のまとめでした。 車を運転して、私たちを連れて行って頂いた正岡夫妻に感謝をして、又機会があれば見に行きたいとお願いをして、塚口駅にて解散しました。 正岡さんに前回お会いしてから少し日時がありましたが、校長先生となられて益々良き指導者としてジンバブエ野球会の為、より貢献されて、その人柄に尊敬の念を感じ、これからもご活躍されますように。奥様の康子さんにはよく話をして頂き、私の知らないシェパード君の事を知る事でこれからも応援したいと誓いました。試合中、夫妻で野球のルールの説明を話しされたり、母の目でシェパード君を見てる姿にさわやかな感じを受けました。 私もこれから先、野球に携わる幸福をジンバブエ野球会を通じていつまでも続けられるといいなと想い帰宅しました。現在、伊藤さんと一緒に尼崎産業高校のコーチをしていますが、野球を通じて恩返し出来る喜びを最近感じております。 2009年 02月 13日
2007年10月
「紫の桜」と日本人の間で呼ばれる木がジンバブエにある。ジャカランダ。アフリカだけと思いきや実はロスにも日本にも存在する。その木をバティは「シロー!これはジンバブエが世界に誇るツリーだ。世界で一番ビューティフルだぜ。」と僕に自慢してきた。日本の桜は柔らかい桃色で人の心をゆるくほどいてくれる。しかしジャカランダは「おれはこのままでいく」といわんばかりの自己主張を自らの色に託し、煌々と存在感を打ち出す。「まるで野球をしているときのお前らみたいだな。」選手と一緒にウォーミングアップでグランドを走っているときに僕は心の中で呟いた。 バティは威勢よくジョギングとダッシュを繰り返して他の選手を引っ張っていた。ムタレベースボールクラブのキャプテンでもありナショナルチームでもサードを守っている他の選手が憧れる上手いプレーヤーだ。予定開始時刻9時を過ぎた午前10時半に開始された練習に参加している選手は7人。多くの選手が11時前後に現れる。新参者の僕は「こういうものなのか」と少し苛立ちを感じつつもあまり選手のルーズさに口を出さなかった。ただ僕は時間通りに来ようと思うぐらいだった。12月上旬には迫った全国大会ドリームカップが近づいているため、選手の出席率は徐々に上がってきていた。今までは練習の最期になっても9人揃わず、フリーバッティングで守備が足りないことがほとんどだった。女子のソフトボールチームにおいては2,3人しか来ず、何をするでもなくただ談笑して帰るというのがお決まり。 ドリームカップまでの2ヶ月間、ムタレの僕らのチームは土曜だけでなく日曜も練習をするようになった。練習に対する緊張感は全くといっていいほどなかったが、ノックでトンネルをしたとき、とれるゲッツーを逃したとき、絶好のど真ん中ストレートを見事に空振りしたとき、やはり悔しい顔をむき出しにする。仲間に野次られる中、僕やナショナルチームの選手がもっとこうしろという指示を出してはまた同じ失敗を繰り返すというような日々がドリームカップまで続いた。 2007年12月 ドリームカップは金土日の3日間かけて行われた。といっても金土は前日に降った大雨でグランド整備に費やされ日曜日のみの短期決戦だった。1試合3イニングというありえない方法だったがやむをえない。場所はムタレチームのホームグランドであるサクバハイスクール。小さいサッカーグランドの形をしているためライトが浅い。ライトにクリーンヒットを打ってもアウトになる確率のほうが高いグランドだった。ハラレ、ブラワヨ、ムタレ、グエル、マショナウエストの5つの州対抗の試合。 ムタレが優勝した。後にハラレ、ブラワヨと続いた。自分のチームが優勝したことで僕は満足したが、それ以上にジンバブエのあらゆるところで多くのジンバブエ人が野球を愛し、楽しんでいる事実を目にして驚いた後心の底から喜んでいた。 優勝記念の写真を撮った。みんな満足気だ。その後、バティがすっと僕に寄ってきた。キャプテンとして大役を務め、4番を打っていたバティと抱き合った。しかしその後バティが ムタレベースボールクラブ優勝記念 ドリームカップにて 僕に言った一言は予想できるものではなかった。「シロー、俺はあさってから南アフリカの大会に行って、たぶん戻ってこない。むこうで仕事するんだ。ジンバブエでは生活がハードすぎるから。」 野球はこの国民を豊かにしている。そう確信した日だった。そして同時に残りの任期を野球に注ごうと決意していた。それでも野球では食べていけない。生活の基本である仕事がなければジンバブエを出て行くことを余儀なくされる。それが現実だった。僕は何もいえなかった。ただ「何かあったら連絡をくれ」と番号とアドレスを教えた。 2008年 僕はムタレのチームのテクニカルコーチに任命された。ナショナルチームのアシスタントにもなった。おかげでムタレ、ブラワヨ、グエル、ハラレのチームを見ることができるようになり、僕の野球生活は充実の一途を辿っていた。 2007年5月の時点で100円(約1USドル)は20,000ジンバブエドルに相当した。2008年5月現在、100円は400,000,000ジンバブエドルに相当する。失業率は80%を越える。「we are struggling, but Zimbabwe is going better very soon」これはジンバブエ国民が皆の口癖だ。おれたちの生活は厳しく毎日もがいているけどジンバブエはすぐ良くなるよ。そんな楽観的なジンバブエ人に時に呆れたり時に励まされた。 僕は今日本にいる。3月末の大統領選挙でジンバブエの治安が悪化しているためJICAから時に励まされた。 帰国命令が下された。形式上は一時退避であるが、いつジンバブエに帰れるのか分からない。現在ジンバブエ野球協会の会長であるマンディ、そしてジンバブエの野球を盛り上げるためのスケジュールはほぼ決まっていた。州代表のチームのキャンプ、マシンゴチーム新設、ナショナルチームの補強、準ナショナルチームの編成、全国大学選手権への野球種目導入、ドリームパークの運営。多くの野心が実となる夢を見ていた。多くの野球を愛するジンバブエ人と共に。 ひとりでも多くの人が野球を本気でプレーしていることを僕はただただ願っていることしかできない。またジャカランダの木の下でボールを追いかける日を夢見ている。 2008年 10月 08日
ジンバブエ野球会10周年 正岡茂明
ジンバブエ野球会十周年記念の集いは、一時帰国された村井洋介さんをお迎えして、2008(平成20)年5月25日(日)の午後2時から尼崎市労働福祉会館で行われました。伊藤さんの挨拶の後、村井さんがジンバブエの状況を踏まえて、アフリカでの野球の可能性やジンバブエ野球会の今後の方向性などについて、お話をされました。ちょうど横浜でTICAD(アフリカ開発会議)が開かれており、日本はこれまでアジア中心だったODAをアフリカにも本格的に進めていくという。ということは10年も前に活動を始めた我々は、なかなかすごいことをしているんだなぁと改めて思いました。 十年一昔といいます。自分自身中心で申し訳ありませんが、この間のことを振り返ってみたいと思います。10年前を少し遡って、ジンバブエFOD委員会が発足したのは、12年前の1996(平成8)年で、球場建設のための募金活動が始まりました。その時私は、神戸の御影高校に勤めていました。震災後でグランドにプレハブ校舎が建てられ、野球の練習は近隣の高校や大学のグランドを転々とするという時期でした。当時、神戸の高校野球の指導者同士で五日会という集まりがあり、年に一度は中学校の野球部指導者とも交流会がありました。その交流会で伊藤さんにも参加してもらって、「ジンバブエに野球場を」の話をして、出席者から援助を頂きました。ハラレ・ドリーム・パークにある(はずの?)銅板の芳名録には、その時参加していた先生方の名前も載っています。 翌年、私は西宮北高校に転勤しました。この学校は、現在大リーグで活躍している田口壮選手の母校です。私はここで、監督という立場から顧問そして高野連の地区(西阪神)の仕事をするようになりました。高校野球の指導ということでは第一線を退きました。2000(平成12)年7月、学年主任をしていた学年での講演会に「国際貢献」というテーマで、伊藤さん、山本肇先生、吉田京子さんにお話をしていただきました。このことは神戸新聞に取り上げられました。 翌年、ジンバブエツアーがありましたが、私は結局ドタキャンしてしまい、参加しませんでした。 そして次の年、県立尼崎高校に転勤しました。2003年3月、マンディ、ステュワート、ジョンの3名が来日し、10日間ほど我が家で生活しました。彼らは本当に物静かで、真面目でした。狭い部屋でも上手に使ってくれました。彼らが関空から離日する時、少しでも野球用品を持って帰れるようにと、ポケットやバッグの中に入れられるだけ詰め込んだボールを、航空会社のスタッフに取り上げられてしまいました。本当につらい光景として記憶に残っています。 けれども翌(2004)年の11月に関西学院のランバス生誕150年記念行事に関連して、ジンバブエのナショナル・チームが来日し、マンディ、ステュワート、ジョンとも再会できました。西宮北高校野球部に無理を言って、グランドを借りて練習をした時、私はバッティングマシンを操作する係をしました。中軸バッターの打球は鋭く防球ネットが破れるのではと思うほどでした。その一人がシェパードだったのです。 そして2005年11月、シェパードが四国リーグのトライアウトを受けるために来日、高松でのトライアウト以外は、我が家に滞在しました。長身ですが、本当におとなしい青年(20歳そこそこ)でした。実はこのときハプニングがあり、シェパードの滞在はビザの期限ぎりぎりまでとなります。その時の顛末は後に記載させて頂きます。そして無事シェパードは2006年と2007年、四国リーグ香川オリーブガイナーズでプレイし、2008年春BCリーグの福井ミラクルエレファンツに移籍して、このところスタメンとして活躍中。この間、来日・離日のトランジットとして我が家を利用しています。 この10年(正確には12年)をざっと見てきましたが、この間ジンバブエの経済、国内情勢は悪化の一途をたどり、村井さん自身も南アへ移らざるを得なくなりました。青年海外協力隊自体が脱出しなければならない事態となっています。野球どころではない状態のようです。そしてその間、村井さんのお父さんが亡くなられ、シェパードのお母さんも亡くなりました(日本にいて、シェパードは帰国できませんでした)。一方、村井さんはジゼラさんと結婚し、子供さんが二人、マンディも結婚して二人の子供がいます。悪いこともありますが、いいこともあり、ジンバブエ野球会の活動も大きな動きがある時(結構、集中しているように思います)とその間の大きな動きのない時(一見停滞しているように見えます?)が、経済変動の波のように繰り返されています。 村井さんの講演は、アフリカの将来に関して、どちらか言うと悲観的なトーンでした。確かにアフリカ、ジンバブエの現状を見ると、調子の良い話はできないだろうなぁと思います。ただ、会の後、阪神尼崎へ向かう途中、藤岡さんのご主人が、「村井さんもあんな風に(アフリカのことを否定的に)言われるけど、今も南アフリカに住んで居られるということは、アフリカやジンバブエを何とかしたいと思って居られるんじゃないかな」と言われたことは私にとって大きな救いでした。阪神尼崎のがんこ寿司での2次会の懇親会には19名もの参加がありました。本当に久しぶりの稲家さん、ジンバブエツアーの時は小さかった金沢さんの娘さんも参加してくれました。 これからもいろいろなことが起こると思いますが、当初の理念である「ゆったり気長に支援を続けていく」に基づいて、活動に参加できればと思っています。最後になりますが、私がこの会の活動を続けられている最大の理由は妻を始め家族の協力です。感謝しつつ、今後も期待しています。 (※)このハプニングの顛末は、当時の県立尼崎高校の学内広報誌「県尼だより」に掲載しましたので、紙面を占領して申し訳ありませんが、続けて掲載させて頂きます。 『県尼だより』(平成17年11月18日) 【寄稿】「ジンバブエから来た青年」(その1) 教頭 正岡 茂明 まず、皆さんはジンバブエという国を知っていますか。聞いたこともないという人もいるかも知れません。南部アフリカの内陸国、かつてローデシアという名で白人が支配していた、エイズが蔓延していて平均寿命が30歳台、現在黒人政権ではあるが長期の独裁で政治が乱れている、激しいインフレーションで経済が混乱している等々。新聞に載っても、良い話はほとんどありません。 そんな国から、野球の四国リーグ(独立リーグ)の新人テスト(トライ・アウト)を受けるためにシェパード君(20)が来日し、我が家にホームステイすることになりました。なんでそんな人を泊めることになったのか?なかなか簡単に説明することは難しいのですが、私の野球の師匠、といっても私より2歳年上の人ですが、その人物がジンバブエで子ども達に野球を教えていた青年海外協力隊員の活動をテレビで見て、ジンバブエに野球場を建設するという野望(私だって最初に聞いた時は本当にできるのかと疑いました)を抱いて、周囲の人を説得し、本当に野球場を作ってしまったのです。映画には「フィールド=オブ=ドリーム」がありますが、これは現実の話です。この野球場建設のために協力した人たちが、私の師匠を中心にジンバブエ野球会という集まりを作って、その後もジンバブエの野球人を支援しています。私もわずかなお金を野球場建設のために寄付し、その後も会のお世話をさせてもらっています。それと、私の妻は外国の方々をお世話するのが好きで、ホームパーティーをしたり、留学生を預かったりなどしていました。一昨年にもジンバブエからの青年が3人、1週間ほど我が家に泊まりました。そういう関係で今回のシェパード君も引き受けることになりました。 彼は10月19日にやって来ました。身長190㌢、体の割には小さな声でしゃべる若者でした。23日に師匠に連れられて高松へ行き、24、25日とテストを受け、最終選考まで残ったそうです。最終の結果発表は12月になるとのことですが、結構脈はあるようです。そして29日の朝、妻が師匠と彼を車で関空まで送り、無事離日するはずだったのですが。 『県尼だより』(平成17年12月6日) 【連載】「ジンバブエから来た青年」(その2) 前号の中で若干誤りがありましたので、そこから話を始めます。10月29日朝、家内が関空まで送ったというのは、JR尼崎のリムジンバス乗り場までの間違いで、家内はこれで肩の荷が降りたと家に帰っていたのです。続きはここからです。昼過ぎになって関空まで引率していた師匠から、「南アフリカのトランジット・ビザがないため、許可が下りず、切符は買っているのに搭乗できない。尼崎に戻る。」との電話が入りました。今年の10月から法改正され、飛行機を乗り継ぐ時には、トランジット・ビザがなければならなくなったとのこと。ジンバブエから来日する時はチェックされなかったのに、帰る時にはちゃんとチェックされて、出国できないということのようです。彼の日本での滞在ビザは11月3日まで。10月29日は土曜日で、翌日も動きが取れず、シェパードはわが家でビデオ鑑賞。31日(月)師匠は八方手を尽くして調べたのですが、短期間で発行してもらうには、やはりパスポートを直接持って東京のジンバブエ大使館に行かなければならないとのこと。 『県尼だより』(平成17年12月22日) 【連載】「ジンバブエから来た青年」(その3) 10月31日(月)の午前中まで話をしたと思います。東京のジンバブエ大使館まで直接パスポートを持って行かなければならないのですが、…。ところで、皆さん10月31日といえば、アルカイックホール・オクトで「高校生フォーラム」阪神大会があった日だと覚えている方も多いと思います。実はこのフォーラム中に家内から連絡があり、「東京で自由に動ける人を知らないか」と聞いてきました。残念ながら心当たりはなく、「無理やな」と答えただけでした。しばらくしてから、また家内から電話がかかり、「東京で取り次いでくれる人は見つかったが、大使館への英文の説明書(サポートレター)が必要なのでメガンに添削してもらいたい。原案が出来たら学校へFAXを送るので、すぐにメガンに見てもらって、送り返してほしい」ということでした。さて、サポートレターが出来、東京で持っていってくれる人が見つかっても、パスポートやサポートレターをどうして東京へ送るのか?実はこれも後で聞いた話なのですが、たまたま郵便物を届けてくれた配達の人に教えてもらって、午後5時までに大阪近隣から発送すれば次の日の午前10時に東京都内に届く特別の郵便があると知ったのだそうです。これは宅急便にもできない技です。これに間に合わせるべく、メガンが「高校生フォーラム」後、学校で添削、返送して家内が完成し、ぎりぎり午後5時直前に近くの郵便局に滑り込み、発送したとのこと。パスポートや書類は11月1日に東京に着き、ジンバブエ大使館に届けられ、翌日2日にビザが交付され、そしてパスポートとビザの入った封筒が11月3日の朝10時前に我が家に届きました。 そんな周りのドタバタを知ってか知らずか、シェパードはビデオからDVDの鑑賞に精を出し(アメリカ映画が好きだとか)、好きな映画を阪急塚口駅近くのレンタルビデオ屋で借りて、見ていました。これぐらいの度胸がないと、知らない国で野球選手になろうなんて出来っこないことだと思いました。何とか、滞在ビザの切れる11月3日の夕方に、彼は関空から帰って行きました。本当にぎりぎりの綱渡りのような日程でした。家内の車のフロントガラスには、今でもシェパードが指で書いた“I miss you and Japan”の文字と手形が残っています。 そして、この「県尼だより(第13号)」の発行に合わせるように、吉報が入ってきました。四国アイランドリーグがトライアウトの最終選考結果を発表し、シェパードも合格しました。ジンバブエ人最初のプロ野球選手の誕生です。連絡はすべてEメールで行われていますが、本人はやる気満々だそうです。給料(月額8万円程度)、契約期間(シーズン中のみの給料支給)などなど、クリアーしなければならない問題は山積みですが、夢の実現に向かって第一歩を踏み出しました。また4チームのうち、どのチームに所属するかもまだ決まっていません。私個人としては、息子達のいる徳島のチームに所属してくれたら、一家ぐるみで応援できるのにと思っています。いろいろしんどいことも多い毎日ですが、自分たちのしていることが行ったこともないアフリカとつながっていると思うと、何かうれしいようなワクワクするような気持ちになります。 2008年 10月 08日
ジンバブエ野球会10周年 村井洋介
ジンバブエ野球会10周年おめでとうございます。 協力隊員として派遣されてから私自身のアフリカ生活は早17年目になりました。今でも忘れないのが初めてジンバブエのハラレ空港に降り立った時の「あぁ、寒いなぁ」という印象です。 そして17年という歳月の間には父方の祖父母と最愛の父を亡くしましたが、一方で結婚をして子供が2人できました。これまでの訪問国は、現在の仕事の関係上から20ヶ国になっています。 さて、この10年はジンバブエにとってまさに激動の10年でありました。既に様々なメディアで報道されておりますので、いまさら私が申し上げるまでもないのですが、99年頃から始まった経済崩壊はまさに底なし沼の如く続き、現在は政府発表のインフレ率が16万%を超える世界最悪記録となっています。(政府発表が16万%という事は、これまでの例から実際には40万%を超えているかも知れません)私自身、良いのか悪いのか、国が崩壊するとはこういうことかという実体験をしました。 ジンバブエは現在、生活するのに精一杯でスポーツなど・・・という近年の状態から、もう生活さえも出来ない状況になっています。人口1200万人のジンバブエですが、海外に移住した人、難民となって近隣国に密入国した人などの数は300万人から400万人に及んでいます。特に密入国となると命がけの脱出をしている人々も少なくありません。南アに逃げ込むのにワニの居る川を渡ったり、地べたに這いつくばって有刺鉄線の下や国境警備隊の目をかいくぐったりして国境を越えているのです。多い時は週に千人単位の人が国外へ逃げています。 信じ難い話ですが、現在はそうやって国を出てジンバブエの外に暮すジンバブエ人(これをディアスポラと呼んでいますが)から送金されてくる外貨で国が成り立っていると言っても過言ではありません。その額はなんと年間40億ドル(日本円にして約4千億円)と言われています。そしてそれらのお金は正規の市場ではなく闇市場を中心に動いているのです。 悲しい事に、私が青年海外協力隊隊員として赴任した1992年の美しく、活気にあふれ、親切な人々が暮し、輝いていたジンバブエの姿は今もう何処にも見当たりません。 今年はTICAD IV(Tokyo International Conference of African Development:アフリカ開発会議)、G8洞爺湖サミットが日本で行われる事もあり、日本ではアフリカ年となって盛り上がっています。という事で、この機会にアフリカ全体について簡単に説明させて頂きます。 先ずは国の数ですが、アフリカ大陸には島国も含めて53ヶ国あり、いわゆるブラックアフリカと呼ばれるサハラ砂漠以南のアフリカ諸国は48ヶ国あります。 これは国の数でいうと世界の国々の4分の1にあたり、総面積では世界の16%(約6分の1弱)になります。そして人口はアフリカ全体が9.2億人、サブサハラアフリカは約8億人弱で世界の10%強にあたります。 そんなアフリカ(サブサハラ・アフリカ)ですが、資源開発が進む今現在のGDP(国民総生産)でさえまだ世界の1.4%に過ぎず世界経済の規模から見るとまだまだ経済的には重要性が低いと言えます。しかもそのサブサハラ・アフリカ全体のGDPの内、4割強が南アフリカ1国によるもので、つまり残り47ヶ国全てを足してもサブサハラアフリカのGDPは世界の1%にも満たない経済規模です。(ちなみに日本のGDPはサブサハラアフリカ全体の約10倍です。) しかし、世界の国の約4分の1に相当する国々が存在するアフリカ大陸が抱える問題は、残り4分の3の世界に大きな影響を与え、安定を揺るがす事にさえなりかねません。 そのためにこれまで日本を含め多くの先進諸国が多額の援助をアフリカに注いできました。 にもかかわらず、残念ながらアフリカ経済はこれまで一向に成長しませんでした。 1980年代はアフリカの重要輸出品であった資源の価格低迷が続いていた事も経済成長できなかった大きな理由です。 ところが、21世紀の資源価格高騰により、アフリカ内陸部での資源開発でさえ採算にのるようになった為、これまで世界から無視されてきたアフリカが、資源開発投資で俄然注目を浴び、今ではもう無視できない存在となっています。その結果、60年代後半から21世紀初頭まで巨額の援助が投入されても一向に成長しなかったアフリカ経済が資源開発の直接投資によって、ODAでは成しえなかった経済成長を突如としてはじめたのです。そのためアフリカは今、かつての「貧しい大陸」から「膨大な矛盾と共に成長を続ける大陸」に変貌しているとともに、かつての「悠久の時が流れる大地」ではなくなっているのが現状です。 しかし、資源開発に牽引されて成長を続けているアフリカ経済の実態は異常なまでの格差の拡大と、飢餓の再生産をはらんで成長率だけが上昇するといったこれまで人類が経験した事のない異質なものとなっています。そして残念ながら今後も貧富の差は広がりこそすれ無くならないと考えられています。これが、現在のアフリカの現実であり、現状です。 さて、とは言うもののなにはともあれアフリカ中が平均5%で経済成長を続ける昨今ですが、唯一ジンバブエのみがマイナス成長という事実があります。本来ならば世界でも南アフリカとジンバブエに8割以上が偏在している希少金属やエネルギー資源が豊富な国であるジンバブエは、本来今世紀は他国に負けず劣らずの経済発展をしているはずなのです。 さらに、以前は農産品の自給率は100%で、南部アフリカの穀物倉庫と呼ばれ農産物の輸出国であったほど豊かな国であった事からも、飛び抜けて豊かな国になりえたのです。 確か以前にも書かせて頂いたと思いますが、私は経済発展なくしてスポーツの、特にマイナースポーツの普及と発展はありえないと考えます。近年安定した経済成長を続ける南アフリカは、各スポーツ分野に於いて軒並み世界レベルで頭角を現してきていることからも解ります。 ジンバブエ人はバンツー系と呼ばれる民族の人たちで、奴隷貿易で欧米に連れて行かれた西アフリカの民族とは違います。正直なところ身体能力においてはかなり劣ると思います。悪く言えば奴隷として選ばれもしなかった民族です。 しかしコンタクトスポーツではない野球ならばどうでしょうか、日本野球を考えてみてください。 ただし問題は野球(野球のみならずスポーツ全般)の緻密さの部分です。正直なところ大半のジンバブエ人が教育を受けて育つ場所は今もハイデンシティーエリアと呼ばれる人口密度が高くどちらかというと貧しい人々が暮すエリアがほとんどです。元々そこは白人支配の際に与えられた黒人居住区です。家族の暮らしも楽ではないでしょうし、同じエリアに暮す教師の質は決して良いとは言えません。これは私の個人的な見解ですが、そのようなところで育つという事は、どうしてもモラル(道徳)は低くなってしまいますし、長期的なプランというものに欠けます。さらに今を生きる事に精一杯な面も多いでしょうから、そうなりますと計画性もさることながら何故か記憶力や想像力も養われないような気がします。 野球(スポーツ)上達に於いて計画性と記憶力、さらに想像力は重要な部分なのですが、その部分の力がいま一つ弱いのです。しかし、これらについて外国から来た我々に何が出来るでしょうか? そうです。もうお解かり頂けたと思いますが、やはりシェパード・シバンダが将来のジンバブエ野球の星なのです。勿論今彼は自分の事に一生懸命で良いのですが、将来、私も含めた協力隊員が出来なかった野球の普及と発展を叶えるキーパーソンなのです。 そして、更なるシェパードが必要であると共に、海外に頭脳流失された優秀なジンバブエ人が将来ジンバブエに戻って来る事を期待します。本当に、世界がアフリカを必要としている今、今後の情勢次第ではジンバブエが生まれ変われるチャンスなのです。 ジンバブエに住む多くのジンバブエ人は知らないのですが、ジンバブエほど恵まれた国はアフリカ大陸、いや世界中を探しても数えるほどしかありません。始めに申し上げた通り、西、東、中央、南部アフリカの20ヶ国を訪問しましたが、ジンバブエは本当に素晴らしい国です。 気候は最高、農業に最適、資源は豊富、都市部は(マラリア)感染症の心配は無い、部族問題は無い・・・こんな国他にいくつあるでしょうか? ジンバブエの平和と再建を願って止みません。 2008年 07月 03日
ジンバブエ野球会10周年
村井洋介 ジンバブエ野球会10周年おめでとうございます。 協力隊員として派遣されてから私自身のアフリカ生活は早17年目になりました。今でも忘れないのが初めてジンバブエのハラレ空港に降り立った時の「あぁ、寒いなぁ」という印象です。 そして17年という歳月の間には父方の祖父母と最愛の父を亡くしましたが、一方で結婚をして子供が2人できました。これまでの訪問国は、現在の仕事の関係上から20ヶ国になっています。 さて、この10年はジンバブエにとってまさに激動の10年でありました。既に様々なメディアで報道されておりますので、いまさら私が申し上げるまでもないのですが、99年頃から始まった経済崩壊はまさに底なし沼の如く続き、現在は政府発表のインフレ率が16万%を超える世界最悪記録となっています。(政府発表が16万%という事は、これまでの例から実際には40万%を超えているかも知れません)私自身、良いのか悪いのか、国が崩壊するとはこういうことかという実体験をしました。 ジンバブエは現在、生活するのに精一杯でスポーツなど・・・という近年の状態から、もう生活さえも出来ない状況になっています。人口1200万人のジンバブエですが、海外に移住した人、難民となって近隣国に密入国した人などの数は300万人から400万人に及んでいます。特に密入国となると命がけの脱出をしている人々も少なくありません。南アに逃げ込むのにワニの居る川を渡ったり、地べたに這いつくばって有刺鉄線の下や国境警備隊の目をかいくぐったりして国境を越えているのです。多い時は週に千人単位の人が国外へ逃げています。 信じ難い話ですが、現在はそうやって国を出てジンバブエの外に暮すジンバブエ人(これをディアスポラと呼びますが)から送金されてくる外貨で国が成り立っていると言っても過言ではありません。その額はなんと年間40億ドル(日本円にして約4千億円)と言われています。そしてそれらのお金は正規の市場ではなく闇市場を中心に動いているのです。 悲しい事に、私が青年海外協力隊隊員として赴任した1992年の美しく、活気にあふれ、親切な人々が暮し、輝いていたジンバブエの姿は今もう何処にも見当たりません。 今年はTICAD IV(Tokyo International Conference of African Development:アフリカ開発会議)、G8洞爺湖サミットが日本で行われる事もあり、日本ではアフリカ年となって盛り上がっています。という事で、この機会にアフリカ全体について簡単に説明させて頂きます。 先ずは国の数ですが、アフリカ大陸には島国も含めて53ヶ国あり、いわゆるブラックアフリカと呼ばれるサハラ砂漠以南のアフリカ諸国は48ヶ国あります。 これは国の数でいうと世界の国々の4分の1にあたり、総面積では世界の16%(約6分の1弱)になります。そして人口はアフリカ全体が9.2億人、サブサハラアフリカは約8億人弱で世界の10%強にあたります。 そんなアフリカ(サブサハラ・アフリカ)ですが、資源開発が進む今現在のGDP(国民総生産)でさえまだ世界の1.4%に過ぎず世界経済の規模から見るとまだまだ経済的には重要性が低いと言えます。しかもそのサブサハラ・アフリカ全体のGDPの内、4割強が南アフリカ1国によるもので、つまり残り47ヶ国全てを足してもサブサハラアフリカのGDPは世界の1%にも満たない経済規模です。(ちなみに日本のGDPはサブサハラアフリカ全体の約10倍です。) しかし、世界の国の約4分の1に相当する国々が存在するアフリカ大陸が抱える問題は、残り4分の3の世界に大きな影響を与え、安定を揺るがす事にさえなりかねません。 そのためにこれまで日本を含め多くの先進諸国が多額の援助をアフリカに注いできました。 にもかかわらず、残念ながらアフリカ経済はこれまで一向に成長しませんでした。 1980年代はアフリカの重要輸出品であった資源の価格低迷が続いていた事も経済成長できなかった大きな理由です。 ところが、21世紀の資源価格高騰により、アフリカ内陸部での資源開発でさえ採算にのるようになった為、これまで世界から無視されてきたアフリカが、資源開発投資で俄然注目を浴び、今ではもう無視できない存在となっています。その結果、60年代後半から21世紀初頭まで巨額の援助が投入されても一向に成長しなかったアフリカ経済が資源開発の直接投資によって、ODAでは成しえなかった経済成長を突如としてはじめたのです。そのためアフリカは今、かつての「貧しい大陸」から「膨大な矛盾と共に成長を続ける大陸」に変貌しているとともに、かつての「悠久の時が流れる大地」ではなくなっているのが現状です。 しかし、資源開発に牽引されて成長を続けているアフリカ経済の実態は異常なまでの格差の拡大と、飢餓の再生産をはらんで成長率だけが上昇するといったこれまで人類が経験した事のない異質なものとなっています。そして残念ながら今後も貧富の差は広がりこそすれ無くならないと考えられています。これが、現在のアフリカの現実であり、現状です。 さて、とは言うもののなにはともあれアフリカ中が平均5%で経済成長を続ける昨今ですが、唯一ジンバブエのみがマイナス成長という事実があります。本来ならば世界でも南アフリカとジンバブエに8割以上が偏在している希少金属やエネルギー資源が豊富な国であるジンバブエは、本来今世紀は他国に負けず劣らずの経済発展をしているはずなのです。 さらに、以前は農産品の自給率は100%で、南部アフリカの穀物倉庫と呼ばれ農産物の輸出国であったほど豊かな国であった事からも、飛び抜けて豊かな国になりえたのです。 確か以前にも書かせて頂いたと思いますが、私は経済発展なくしてスポーツの、特にマイナースポーツの普及と発展はありえないと考えます。近年安定した経済成長を続ける南アフリカは、各スポーツ分野に於いて軒並み世界レベルで頭角を現してきていることからも解ります。 ジンバブエ人はバンツー系と呼ばれる民族の人たちで、奴隷貿易で欧米に連れて行かれた西アフリカの民族とは違います。正直なところ身体能力においてはかなり劣ると思います。悪く言えば奴隷として選ばれもしなかった民族です。 しかしコンタクトスポーツではない野球ならばどうでしょうか、日本野球を考えてみてください。 ただし問題は野球(野球のみならずスポーツ全般)の緻密さの部分です。正直なところ大半のジンバブエ人が教育を受けて育つ場所は今もハイデンシティーエリアと呼ばれる人口密度が高くどちらかというと貧しい人々が暮すエリアがほとんどです。元々そこは白人支配の際に与えられた黒人居住区です。家族の暮らしも楽ではないでしょうし、同じエリアに暮す教師の質は決して良いとは言えません。これは私の個人的な見解ですが、そのようなところで育つという事は、どうしてもモラル(道徳)は低くなってしまいますし、長期的なプランというものに欠けます。さらに今を生きる事に精一杯な面も多いでしょうから、そうなりますと計画性もさることながら何故か記憶力や想像力も養われないような気がします。 野球(スポーツ)上達に於いて計画性と記憶力、さらに想像力は重要な部分なのですが、その部分の力がいま一つ弱いのです。しかし、これらについて外国から来た我々に何が出来るでしょうか? そうです。もうお解かり頂けたと思いますが、やはりシェパード・シバンダが将来のジンバブエ野球の星なのです。勿論今彼は自分の事に一生懸命で良いのですが、将来、私も含めた協力隊員が出来なかった野球の普及と発展を叶えるキーパーソンなのです。 そして、更なるシェパードが必要であると共に、海外に頭脳流失された優秀なジンバブエ人が将来ジンバブエに戻って来る事を期待します。本当に、世界がアフリカを必要としている今、今後の情勢次第ではジンバブエが生まれ変われるチャンスなのです。 ジンバブエに住む多くのジンバブエ人は知らないのですが、ジンバブエほど恵まれた国 はアフリカ大陸、いや世界中を探しても数えるほどしかありません。始めに申し上げた通り、西、東、中央、南部アフリカの20ヶ国を訪問しましたが、ジンバブエは本当に素晴らしい国です。 気候は最高、農業に最適、資源は豊富、都市部は(マラリア)感染症の心配は無い、部族問題は無い・・・こんな国他にいくつあるでしょうか?ジンバブエの平和と再建を願って止みません。 # by amain | 2008-07-03 23:27
2008年 02月 18日
事務局だより
伊藤益朗 ●2007年12月。星野ジャパンの戦いに、野球の醍醐味を満喫しました。北京が楽しみです。 ●北京オリンピック、野球のアフリカ予選は、12月15日から南アフリカのヨハネスブルグで開催され、南アが優勝し、3月に台湾で開催される世界最終予選に出場します。アフリカでも、星野ジャパンと同じ舞台へつながる予選があったのです。マンディ監督の報告をご一覧ください。また、南アにやってきたジンバブエチームに対し、ジンバブエ野球会を代表して、村井さんから以前デサント社から頂いていたスパイクをプレゼントしました。 ●同会の目的を「アフリカを中心に、野球振興と野球交流をゆったり応援する。」と変更させていただきます。ジンバブエ支援がままならない状況下、ジンバブエを核にしながらも、必要とするところへの支援を可能にするためです。皆さんの中には、ジンバブエ・アフリカに関心が強い方と、野球への関心がより強い方がいらっしゃいます。支援先をジンバブエから他へ移さないでというご意見と、野球関連であれば、ジンバブエ以外でも柔軟に考えてよいというご意見があります。 ●今回、「冬の集い」はお休みをさせて頂き、別の機会に「ジンバブエ野球会10周年」を考えます。ご了承ください。 ●昨秋、朝日新聞の15回に及ぶ連載「国を壊す・ジンバブエの場合」で、ジンバブエの危機が紹介されていましたので、日本でもジンバブエの苦境が知られるようになりました。その各回の見出しを連記させて頂くと、次のようになります。 ①独立27年、逃げる民。ワニ泳ぐ川渡り南アへ。パン価格2ヵ月で3倍 ②「価格半値」靴屋に走った③卵1個、露天で「2万円」④医師も困窮、海外脱出⑤派兵と農場接収、打撃⑥元ゲリラ占拠、枯れる畑⑦農場追われ流民100万人⑧流民、野を焼き動物狩る⑨白人農家、大豆が貨幣⑩NGO、小農の自立促す⑪農業功労者を邪魔者扱い⑫給食だけで腹満たす⑬経済崩壊「英国のせい」⑭野党への暴行、公然と⑮「命かけて戦ったのに」 ●毎日新聞(1/20)によりますと、「ジンバブエでは、2008年1月18日に最高額紙幣として、1千万ジンバブエドル札が導入されました。公定レートでは333米ドル(約35800円)、闇レートではわずか3.3米ドル(約358円)の価値しかない。また、ジンバブエでの一般的なハンバーガーの価格は1個、約1500万ジンバブエドルだという。」(要約) 私たちが25人ツアーで訪問した2001年には、100米ドル札1枚が、闇レートで100ジンバブエドル210枚に替わったことに驚いていましたが、もし今も最高額紙幣がそのままなら、300万枚に替わることになります。 ●シェパード選手は、昨年まで2年間お世話になった香川オリーブガイナーズを解雇されたので、BC(旧北信越)リーグの新球団、福井ミラクルエレファンツのテストに挑戦し、入 団を許されました。福井は、今季出来たての球団です。うまく出場機会に恵まれて、試合での経験を積むことが出来るように願っています。試合に出続ける経験を日本で積んで、いつの日かジンバブエで野球を伝えてもらえたら、更に嬉しく思います。 ●シェパード選手は、1月29日来日。2月1日に入寮し、福井での野球生活が始まります。 ●村井洋介さんのお父様(弘治様)がお亡くなりになりました。生前お好きだった聖句のとおり、高ぶらず、ご自分だけが特別扱いされるのを嫌う、謙虚な方でした。また、お母様が遺品を整理しておられた時、手帳の最後に「求めない」という言葉を書いておられたのを発見されたそうです。深い部分での決意は生き方に現れるということを思いました。村井さんのご両親の支えあればこそ、野球場が出来、私たちの会もスタートし、またここまでやって来られたと感じています。本当にお世話になりました。ありがとうございました。 ●会計中間報告 期首(6月1日) 1,478,561円 12月末残高 1,997,719円 (その間の主な支出)シェパード陣中見舞い10,000円、 シェパードBCリーグ受験時の国内移動と宿泊支援86,023円 その他、ジンバブエの風印刷費と発送料、村井氏ご尊父様ご逝去供花代等 ●アフリカ、ジンバブエの地は大変厳しい状況が進行中で、マンディ氏は、今回の原稿で、いろいろな提案をしています。そんなことがこの厳しい状況下で出来るのかと思いますが、その熱意は頼もしい限りです。応えられることがないか、考えます。 私の仕事は、11・12月は例年年賀状印刷で忙しく、数年前までは、へとへとになっていました。近年は注文数が大幅に減ったため、ずいぶん体は楽になりました。しかしその分、稼ぎも悪くなってきました。今回の正月は、不完全燃焼のうちに迎えることとなり、以前までの「あー、何もかも終わった」という爽快感が持てませんでした。そのせいでなのか、今年気がついたのですが、私は、この正月の期間がものすごく好きだったのです。この時期は、自分も他のほとんどの人たちも休みで、世間が止まって落ち着いています。この時に、思い切り子どもの時のように心と体の探検をしていたのです。普段読めない本を読んで、自分の感覚を呼び覚ますのです。当ても無く電車に乗って本を読み、気の向いたところで降りて、付近を散策するのです。一年に一度、失っていたものを思い出す何ものにも代え難い貴重な一週間でした。仕事や用事に引っ張られるように過ごす日常と違う、静かで自分の呼吸が聞こえそうな至福の時間です。私が飛行機が好きなのも、離陸したらもう誰も追ってこないという痛快感から来るものでした。人は、責任ある存在である一方、子どもの頃の奔放な感覚を覚えていると思うのです。どんなに嫌な上司や得意先でも、その人の奥にも、きっとそんな懐かしく温かい感覚が隠れていると想像します。人を、頑張っているとかいないとか、能力があるとか無いとかで、軽々に断を下してよいのでしょうか。みんな独自の生い立ちを持っています。そんなあなたを応援しますという姿勢を貫きたいと思っています。 私はこれまでいろいろな現場で野球に携わってくることが出来ましたこと、幸せに思っています。現役はアマチュア最高レベルの社会人野球のカネカまで経験させて頂き、その後の指導歴は、私学で母校の関学高、身障者チームの兵庫神戸コスモス、社会人クラブチーム全播磨硬式野球団、ジンバブエナショナルチーム、地元で公立の尼崎産業高。ここに並べただけでも、選手の置かれている状況は見事なくらいさまざまです。その人の「野球が好き」を潰さなければ、誰にでもその人なりの野球がありました。私は今も、一人一人の選手たちの変化、成長を楽しみに、尼崎産業高のグランドへ応援に通っています。 2008年 02月 18日
<ジンバブエ野球会、10年の歩み>
1994年8月、「海外に野球場を作りたい」 1995年3月、村井洋介氏と電話連絡、ジンバブエに野球場建設で合意。 1995年6月、村井氏再渡航。野球協会と協議を重ねる。 1996年5月、野球場建設用地決定。 1996年6月、伊藤益朗、建設予定地視察の為ジンバブエ初訪問。 1996年7月、伊藤帰国後ジンバブエFOD委員会発足。募金開始、1000万円集まる。 アフリカ事情で工事遅れるも、ついに、 1998年4月、夢の野球場、ハラレドリームパーク完成。翌日から、小学生の国際大会で柿落とし。 1998年5月、野球場を視察の為のツアーに、9名参加。マウンド作り、親善野球に感激。 1998年5月、関西学院高等部より、選抜大会出場時の余剰金の一部、300万円を寄付され、野球場更衣室やファールグランドの芝生などに使用する。 1998年6月、ジンバブエ野球会創設。ジンバブエFOD委員会の野球場完成報告書送付と共に、「ジンバブエの風」創刊号を送付(その後1年に2回発刊)。ジンバブエの野球をゆったり気長に応援する本会が発足。応援する者同士の出会いも大切にする。年会費制、1口3000円。 1998年12月、ジンバブエの選手達から、クリスマスカードを協力者に送る。(その後、毎年続けている) 1999年2月、講演会、堤尚彦氏「ジンバブエそしてジンバブエ野球事情」。ムビラ演奏、川野和佳子さん 1999年4月、堤氏ガーナへ出発。ジンバブエ野球がガーナに飛び火。後に元ジンバブエ隊員松本裕一氏も続く。 1999年9月、オールアフリカゲーム(南アにて)出場、銅メダル。 1999年12月、ジンバブエ野球会主催、第一回ドリームカップ(その後、毎年開催)をクラブチーム全国大会として開く。ディーゼル不足など、経済不安始まる。 2000年9月、ホームページを開く。 2001年2月、講演会、トーマス・C・カンサ氏「南アフリカの子供達と私の見た日本」。 アフリカの曲演奏、吉田京子さん、原万紀子さん、三木まさよさん。 2001年7月、村井洋介氏「ジンバブエ事情を語る会(ツアーを前にして)」。 2001年8月、ジンバブエツアー25名参加。ビクトリアの滝、ボツワナのチョベサファリ、野球場、孤児院視察など。 2001年9月、村井氏、野球ナショナルチーム監督、ジゼラさんソフトボール協会会長就任。 2002年2月、村井氏、ジンバブエ野球協会の副会長と技術顧問に就任。 2002年2月、講演会、西川潤氏「豊かさと貧しさ(共生の世界は可能か)」。 2002年5月、伊藤、ジンバブエナショナルチームが特別参加した南アの州選抜全国大会を視察。ジンバブエチームは全敗も大健闘。 2002年8月、講演会、織田美夜子さん「ジンバブエ大統領選挙に監視団として参加して」。 2002年12月、ドリームカップがオールアフリカゲームの南部アフリカゾーン予選として開催され、ジンバブエは予選を通過、今年開催の本大会に出場決定。ハラレドリームパークで初の本格的国際ゲーム。 2003年2月23日、青年海外協力隊員OVによるアカペラグループ「音紀行」コンサート開催予定。 2003年10月、野球、ソフトボール共、ナイジェリアで開催のオールアフリカゲーム(兼アテネオリンピック予選)出場予定。 2003年4月13日、ハラレドリームパーク完成5周年。 2003年6月1日、ジンバブエ野球会設立5周年。 ・・・・・2100年にも、2200年にも、ハラレドリームパークで、ジンバブエで、アフリカで、 野球が愛され、続けられていますように・・・・・。 2003年8月 、夏の集い 2003年10月、ナイジェリア開催のオールアフリカゲームに村井が監督、伊藤がコーチで参加。銅メダル。 2004年2月 日、冬の集い 2004年8月 日、夏の集い 2004年10月 日、関西学院創設者生誕150周年記念行事の一環として、ジンバブエナショナルチーム招待される。関学高等部、関西学院大学、そして青山学院大学と試合をし、貴重な経験をしました。 2005年2月 日、冬の集い 2005年8月 日、夏の集い坂本隆さん、今岡伸宇さん 2005年11月ナショナルチームの主砲、シェパード・シバンダ選手が四国アイランドリーグのトライアウトに参加、合格し、香川オリーブガイナーズに入団。 2006年2月 日、冬の集い東朋子さん 2006年8月 日、夏の集い溝畑智子さん 2007年2月 日、冬の集い芝川又美さん・シェパード選手 2007年8月 日、夏の集い竹下千あきさん 2007年10月、朝日新聞でジンバブエの特集連載記事が掲載され、日本の多くの人に、ジンバブエの厳しい状況が知らされました。 2007年11月所属の香川のチームは優勝しましたが、シェパード選手は解雇となり、北信越のBCリーグのトライアウトを受け、福井ミラクルエレファンツに入団する運びとなりました。 2007年12月、ジンバブエチームは、北京オリンピックアフリカ予選(南ア・ヨハネスブルグ)に参加。 南アが優勝し、08年3月に台湾で行われる、世界最終予選に出場します。 ホームページを運営してくれる方募集中。現在、1年ほど書き足しストップ中。 2008年 02月 18日
2007年夏の集い報告
藤井道雄 ジンバブエ野球会の集まりに最初に参加したのは1998年のこと、塚口のさんさんタウンの集会所で、ジンバブエから帰国した岩田・木戸元隊員の方々の話を聞きました。「どんな国、何を食べてるの、宗教は、野球はできるの」等々。はるか遠い地で、若い力が信頼を得ながら確かな繋がりが作り上げられている事を実感しました。あれから10年の月日が経ちます。この間激しい社会変動に巻き込まれたジンバブエの社会状況は一向に改善されず、悪化の一途、今や国の危機と報道されています。一日も早く、国が安定し、ハラレドリームパークにも歓声が戻ってほしいものです。 2007年8月ジンバブエの集いには、隊員経験者で大阪外国語大学の岡田千あきさんが 「スポーツを通じた開発」と題して話しをしてくださいました。東チモール、カンボジア、ボスニアヘルツェゴビナに対するスポーツ援助の様子、スポーツは教育・健康・開発・平和とも深く関わり合いがあり、困難な国作りの中、力を得ている様子を伝えてもらいました。また南アフリカの隊員であった横田直道さんは、「ジンバブエ野球会からの貴重な援助をうけ、お礼を言いたい」とわざわざ東京から駆けつけてくれ、南アフリカでの草の根レベルでの野球の高まりを話してくれました。 (前回ジンバブエの風17号に詳細な記事が掲載されています。)その時々に素晴らしい働き をしている若い力があります。その話しは10年前のお二人の思いと重ねて聞く思いで、嬉しいことでした。 話しの合間には、知っている国を、升目に書き込んでのビンゴ形式のゲームもあり、最後には参加者が輪になって、佐賀北高校の夏の甲子園優勝の話題など、楽しい歓談の一時をもちました。
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