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2009年 02月 13日
2007年10月
「紫の桜」と日本人の間で呼ばれる木がジンバブエにある。ジャカランダ。アフリカだけと思いきや実はロスにも日本にも存在する。その木をバティは「シロー!これはジンバブエが世界に誇るツリーだ。世界で一番ビューティフルだぜ。」と僕に自慢してきた。日本の桜は柔らかい桃色で人の心をゆるくほどいてくれる。しかしジャカランダは「おれはこのままでいく」といわんばかりの自己主張を自らの色に託し、煌々と存在感を打ち出す。「まるで野球をしているときのお前らみたいだな。」選手と一緒にウォーミングアップでグランドを走っているときに僕は心の中で呟いた。 バティは威勢よくジョギングとダッシュを繰り返して他の選手を引っ張っていた。ムタレベースボールクラブのキャプテンでもありナショナルチームでもサードを守っている他の選手が憧れる上手いプレーヤーだ。予定開始時刻9時を過ぎた午前10時半に開始された練習に参加している選手は7人。多くの選手が11時前後に現れる。新参者の僕は「こういうものなのか」と少し苛立ちを感じつつもあまり選手のルーズさに口を出さなかった。ただ僕は時間通りに来ようと思うぐらいだった。12月上旬には迫った全国大会ドリームカップが近づいているため、選手の出席率は徐々に上がってきていた。今までは練習の最期になっても9人揃わず、フリーバッティングで守備が足りないことがほとんどだった。女子のソフトボールチームにおいては2,3人しか来ず、何をするでもなくただ談笑して帰るというのがお決まり。 ドリームカップまでの2ヶ月間、ムタレの僕らのチームは土曜だけでなく日曜も練習をするようになった。練習に対する緊張感は全くといっていいほどなかったが、ノックでトンネルをしたとき、とれるゲッツーを逃したとき、絶好のど真ん中ストレートを見事に空振りしたとき、やはり悔しい顔をむき出しにする。仲間に野次られる中、僕やナショナルチームの選手がもっとこうしろという指示を出してはまた同じ失敗を繰り返すというような日々がドリームカップまで続いた。 2007年12月 ドリームカップは金土日の3日間かけて行われた。といっても金土は前日に降った大雨でグランド整備に費やされ日曜日のみの短期決戦だった。1試合3イニングというありえない方法だったがやむをえない。場所はムタレチームのホームグランドであるサクバハイスクール。小さいサッカーグランドの形をしているためライトが浅い。ライトにクリーンヒットを打ってもアウトになる確率のほうが高いグランドだった。ハラレ、ブラワヨ、ムタレ、グエル、マショナウエストの5つの州対抗の試合。 ムタレが優勝した。後にハラレ、ブラワヨと続いた。自分のチームが優勝したことで僕は満足したが、それ以上にジンバブエのあらゆるところで多くのジンバブエ人が野球を愛し、楽しんでいる事実を目にして驚いた後心の底から喜んでいた。 優勝記念の写真を撮った。みんな満足気だ。その後、バティがすっと僕に寄ってきた。キャプテンとして大役を務め、4番を打っていたバティと抱き合った。しかしその後バティが ムタレベースボールクラブ優勝記念 ドリームカップにて 僕に言った一言は予想できるものではなかった。「シロー、俺はあさってから南アフリカの大会に行って、たぶん戻ってこない。むこうで仕事するんだ。ジンバブエでは生活がハードすぎるから。」 野球はこの国民を豊かにしている。そう確信した日だった。そして同時に残りの任期を野球に注ごうと決意していた。それでも野球では食べていけない。生活の基本である仕事がなければジンバブエを出て行くことを余儀なくされる。それが現実だった。僕は何もいえなかった。ただ「何かあったら連絡をくれ」と番号とアドレスを教えた。 2008年 僕はムタレのチームのテクニカルコーチに任命された。ナショナルチームのアシスタントにもなった。おかげでムタレ、ブラワヨ、グエル、ハラレのチームを見ることができるようになり、僕の野球生活は充実の一途を辿っていた。 2007年5月の時点で100円(約1USドル)は20,000ジンバブエドルに相当した。2008年5月現在、100円は400,000,000ジンバブエドルに相当する。失業率は80%を越える。「we are struggling, but Zimbabwe is going better very soon」これはジンバブエ国民が皆の口癖だ。おれたちの生活は厳しく毎日もがいているけどジンバブエはすぐ良くなるよ。そんな楽観的なジンバブエ人に時に呆れたり時に励まされた。 僕は今日本にいる。3月末の大統領選挙でジンバブエの治安が悪化しているためJICAから時に励まされた。 帰国命令が下された。形式上は一時退避であるが、いつジンバブエに帰れるのか分からない。現在ジンバブエ野球協会の会長であるマンディ、そしてジンバブエの野球を盛り上げるためのスケジュールはほぼ決まっていた。州代表のチームのキャンプ、マシンゴチーム新設、ナショナルチームの補強、準ナショナルチームの編成、全国大学選手権への野球種目導入、ドリームパークの運営。多くの野心が実となる夢を見ていた。多くの野球を愛するジンバブエ人と共に。 ひとりでも多くの人が野球を本気でプレーしていることを僕はただただ願っていることしかできない。またジャカランダの木の下でボールを追いかける日を夢見ている。
by amain
| 2009-02-13 00:53
| ジンバブエの風21
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