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2008年 02月 18日
父とのキャッチボール
村井洋介 今回は少し感傷的に書かせて頂きますことお許しください。 2007年11月10日、「私」・「野球」・「アフリカ生活」の最大の理解者であり、強力なサポーターであった父・弘治が71歳の生涯を閉じました。肺癌でした。 2003年、アテネオリンピック予選でもあったオールアフリカゲームズ・アブジャ(ナイジェリア)大会の真最中に最初の癌摘出手術を行い手術は成功…も、2005年に再発。肺癌の場合、再発後は6~9ヶ月の命だと医者に宣告されましたが、家族の為、自分の為に苦しい癌との戦いを続け、医者も驚く2年もの間頑張ってくれました。 闘病中の父は事ある毎に「もう一度アフリカに行きたい」と言っていました。私が最後に父に会ったのは昨年10月、食事が喉を通らない状態でありながら、南アフリカに暮す私や家族の心配ばかり…「人に迷惑をかけるな。空港まで送ってやれなくてすまんが、気をつけて帰れよ。」が私への最後の言葉でした。私の帰国日に再入院、病状は急激に悪化し、その後はもう電話で話す事さえもできませんでした。 私と野球の出会いは多くの方々がそうであるように父とのキャッチボールでした。父は野球をやっていたわけではありませんが、中学時代は体操部、高校時代はバスケットボール部であったことから運動神経は良かったようで野球も上手でした。 キャッチボールはその後私が社会人野球をしていた頃まで続きました。たまの帰省の際「キャッチボールでもするか?」と誘われ、実家の前の道路で世間話をしながらやったものです。いつどうして購入したのか?新しいMyグラブを出してきて微笑む父の顔を今でも憶えています。思えば、物凄く幸せな時間でした。 流石に92年にアフリカに渡ってからは父とキャッチボールをする機会はなくなってしまいましたが、一度だけジンバブエのドリームパークでキャッチボールをしました。それが、父との最後のキャッチボールでした。 もう一つの思い出は、やはり初めて連れて行ってもらった中日球場の中日-巨人戦です。昭和40年代の中日球場へは名鉄の中日球場前駅から線路沿いの道を徒歩で向かいます。途中、イカ焼き、たこ焼き、とうもろこしといったお祭りの時に並ぶような屋台が並び、ダフ屋が声を張り上げていた事を思い出します。広島出身の父は特に中日ファンではなかったのでビジター側であるレフトスタンドに入りました。暗い通路を抜けカクテル光線がふりそそぐグラウンドの見えるところへ抜けた時の美しさと感動、そして何故か背番号8の高田選手の後姿を今も鮮明に憶えています。 丁度、映画「オールド・ルーキー」で生徒達がメジャーリーガーとなった先生の姿を観にテキサスレンジャーズのスタジアムに入って行くワンシーンにその記憶が重なり、何度観てもゾクゾクします。ちょっと違いますが、ジンバブエの地方の選手や子供達がハラレドリームパークを初めて訪れた時はきっとこれに似た感動があったのでしょう。 父が亡くなってから知った事に、1992年に私がアフリカに渡ってから16年間、ユニセフ(UNICEF)に毎月銀行引き落しで寄付をしていたこと、97年にジンバブエの子供達が世界少年野球フェアーに参加してから毎年、世界少年野球推進財団に寄付をしていたことがあります。 私ももう一度自分がアフリカに居る事で、野球を通じて何が出来るのか考えてみようと思います。 「さようなら・ありがとう」
by amain
| 2008-02-18 22:10
| ジンバブエの風20
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